文は人なり

フリーライター・作家の若林理央です。Twitter→@momojaponaise

【天竺鼠】何かに気づかされる笑い

特別お題「わたしの推し

 

エンターテイメントに共感性が求められる時代になった。

 

小説や漫画を読んだ読者、映画やドラマ・アニメを見た視聴者がSNSで「登場人物に共感できなかった」と投稿する。

それを目にするたび、「共感しなくても味のある作品」は、わかりづらいのかと思い、わかりやすいものばかりが賛美される風潮に疑問を感じる。

 

天竺鼠というお笑いコンビが生み出す笑いは、共感性を呼ぶものではない。

「何か」に気づかされるものだ。

 

ネタを作るボケ担当の川原さんが意識してそうしているのか、無意識のうちにそうなっているのかはわからないが、天竺鼠の漫才やコントを見て笑った後、私たちは「なぜ自分が笑っているのだろう?」とふと我に返る。

 

そして天竺鼠の笑いは、舞台が終わった後も私たちの心をとらえ続ける。

数日経ち、自分の中からこらえきれずに沸き上がった笑いについて、考えることができるのだ。

 

2021年末から2022年はじめにかけて天竺鼠全国ツアー「やっぱツアーっしょ!!」が開催された。

全3回、開催地は紀伊国屋ホール(新宿)、ルミネtheよしもと(新宿)、よみうりホール(有楽町)だ。

 

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昨年、天竺鼠は恐らく世界初の無観客無配信ライブを開催した。

「次はどうくるのか」

ネタや構成を担当するボケ担当の川原さんが、ラジオで「もう有観客無開催くらいしか満足できない」と言うのを聞きながら、不安と期待でいっぱいになっていた。

 

有観客無開催はファンミーティングと何の違いもないと思うのだが、「天竺鼠のファンミーティング、めっちゃ面白そう。川原さんがしたいならしてほしい」という気持ちになった。

 

この「川原さんがしたいなら」というのがポイントである。

 

「川原さんのしたいこと」=「私たちの楽しいこと」だと置き換えられるようになってしまっている。

 

だが、川原さんは有観客無開催ライブではなく、ぜんぶ東京の全国ツアー催行に踏み切った。

 

「そうきたか」

 

驚きながらも、多くのファンが納得しただろう。

 

私は先行発売で全3回のチケットをとり、「寒いし仕事忙しいししんどいけど、単独ライブ全部終わるまでは生き延びる」と気持ちを奮いたたせた。

 

走り切ったとき、心に宿ったのは、川原さんの「圧倒的センター」感とその川原さんの個性をより強める瀬下さんの「内助の功」とも言うべき能力である。

 

川原さんは決して自らのプライベートを明かさない。必要なときは虚構をまじえ話す。

その神秘性と、自分の仕事以外の顔も時折のぞかせる瀬下さんの対比も天竺鼠の魅力だが、今回のライブでは瀬下さんの娘さんが登場するVTRにそれが現れていたように思った。

 

そして、コントのネタ。

 

天竺鼠のコントは、シュールに分類される。

決してわかりやすいものではない。好き嫌いも分かれる。

だが、一度はまった人にとっては、「自分がなぜ面白いと感じるのか」「このネタのどの部分に、何を感じたのか」考察し始めると、止まらなくなる。

全3回見たのに、オンライン配信(※3回目のみ)まで買ってしまった。

また見たいからだ。

胸が痛くなるほど、笑いたいからだ。

 

「やさしい笑い」や「共感性」という言葉は、時折、漫才師やコント師を縛る。

私は、考察しがいがあり、時に痛みすら感じる笑いに満たされたい。

 

次は天竺鼠の漫才を寄席で見る。

出番前に流れる天竺鼠の出囃子をBGMにしていると、再び胸が高鳴り始めた。

 

 

1月1日のトナカイ

「いやあこの年末年始というものがね、いやでたまらない」

 

白いひげを撫でながら、サンタは今年もぼやく。

飲み始めてすぐなのに顔が真っ赤だ。どうせ昨夜ひとりで深酔いしたんだろう。

付き合わされるこっちの身にもなってほしいと思いながら、トナカイはカラになったサンタのコップにビールをついだ。

 

「どうせまた来年もこき使われたあげく忘れられるんでしょ。たまんねえよな。おれはこの年末年始が嫌いな人たちにだけプレゼントをしたい」

「まあまあ、そんなこと言わずに」

こんなこと外で誰かが聞いたら大炎上だぞ、と心の中で毒づく。昔とは違う。どこから情報がもれるかわからないのだ。

「気がきかねえな。お前の親父はもっと話を合わせてくれたぞ」

「それは申し訳ございません。ご期待にそえず」

「まあお前んちも大変だよな。代々、冬は休めないし」

 

だが、帰るとあたたかい家とやさしい家族が待っている。

そう言ってやりたい気持ちをおさえた。

孤独なサンタは、酒に溺れて部下に愚痴ることしかできないのだ。

昔、父親が1月1日の夜に帰ってきたとき、子供だったトナカイはどうしてもっとサンタに寄り添ってあげられないのかと思っていた。

どうせ年末年始だけのことだ。時が過ぎれば、ごきげんなサンタに戻る。

だけど跡を継いだ自分が、サンタに対して父と同じようなことを感じていると気づいたとき、トナカイは運命の皮肉さを痛感した。

父だけではない。祖父も曽祖父も、ずっと1月1日はこんな気持ちだったんだろう。

 

歳をとらず、永遠に子供たちに夢を与え続けなければならないサンタ。

哀れな存在だが、代々そのサンタの部下になることを宿命づけられている自分たちトナカイ一族も、同じように世間から見られているのだろう。

 

あわてんぼうのサンタクロース…」

 

ろれつもまわらなくなっているのに、サンタが歌い始めた。

すぐに大きないびきをたてて、サンタは眠った。

 

ベッドに運ばなければ。

よいしょとトナカイはサンタを背に乗せる。

ベッドの横には、クリスマスツリーがある。

床に、一年に一回だけ使う赤い服や帽子が乱れていた。

小さなトナカイのぬいぐるみもその中にあり、思わず目をそらす。

 

クリスマスが盛り上がり過ぎるからいけないのだとトナカイは思った。

12月26日になれば、ほとんどの人はサンタを忘れる。次の年まで、ずっと。

ベッドでぐうぐう眠るサンタの目がさめないように祈りながら、トナカイは出口に向かった。

 

「あけましておめでとう、ボス」

 

ドアを開ける寸前に、口をついて出た自分の言葉に驚いて、苦笑いした。

町の小さな本屋の可能性 『13坪の本屋の奇跡』木村元彦

 

本屋が町にあふれたら。

とりとめもなく、そんな想像をすることがある。

「好きなジャンルの本は、あの本屋に行けば、最適なものが見つかる」

「今自分に必要な本がわからなければ、本屋さんに相談しよう。ぴったりのものを見つけてくれる」

町の人たちはみんなそう認識し、本屋のレジの前で列を作る。町の子どもたちも、いっしょに列に並んでいる。

「これな、あの本屋さんが選んでくれた本やねん」

あとで友だちに会ったら、子どもたちは自慢するのだ。

 

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 「生活空間である町のインフラとしての本屋」

『13坪の本屋の奇跡』で、著者木村元彦は私が憧れる本屋のことを、そう表現していた。

それが現在の日本で実現しないのは、なぜなのか。

ランク配本、見計らい配本という独自の配本システムや無料配送するインターネット書店増税…若者の本離れ以前に、問題が山積みなのだ。

総務省によると、1991年には全国で7万6915店舗あった本屋は、2014年、3万7817店舗になった。半減している。著者も、『13坪の本屋の奇跡』で「図書カードリーダーのある店が10年前の4分の一」と記していた。

 

まず、配本システムとは何なのか、確認したい。

 

 ランク配本の「ランク」とは、本屋の「ランク」のことである。

 

木村元彦『13坪の本屋の奇跡』では、大阪にある13坪の本屋、隆祥館書店にスポットをあてる。現在の代表取締役、二村知子さんが理不尽なランク配本に直面したのは、1999年のことだった。

当時、日本で大ブームを巻き起こした「動物占い」シリーズ発売時だ。

 

大規模書店では、店のいちばん目立つ場所に「動物占い」シリーズが山積みされていた。しかし、13坪の本屋「隆祥館書店」には、数冊しか入ってこなかった。

お客さんたちは、当然「動物占い」シリーズがないことに驚く。

隆祥館書店の代表である二村知子さんは、取次に連絡を取り、異議をとなえた。

 

出版社→取次(トーハンなど)→本屋というルートで、本は送られてくる。

取次は、本屋をランクで分ける。大規模書店には話題になっている本や新刊を多数入れる。しかし、小規模書店にはわずかしか入ってこない。

 

二村さんは取次に対し、欲しい本をお客さんに買ってもらうため、「もっと動物占いの本を入れてください」と説得した。しかし、取次は、「ランク配本なので、無理です」と応じなかった。

二村さんは、取次の社員がひんぱんに隆祥館書店に顔を出し、注文を聞いてくれていることや、納品のために必死で段取りを組んでいることを知っている。

問題視するべきなのは、取次の社員ではなく、長年受け継がれていた配本システムの構造なのだと、二村さんは実感した。

それは、前代表の二村さんの父が、取次業界に対し声を上げ続けていたことでもあった。

 

二村さんは努力の末、出版社の販売担当者にコンタクトをとり、この件を伝えた。

すると返ってきたのは、「弊社の本が、求めている書店さんに届いていないなんて」という謝罪の言葉だった。

 「動かないと何も始まらない」

二村さんの、その後の道しるべともなる出来事だった。

 

 

『13坪の本屋の奇跡』にも書かれているように、町の本屋が苦境に追い込まれている配本システムはもう一つある。見計らい配本だ。

 

段ボールを開けると、頼んでもいない本が入っている。根拠なく特定の国を否定するヘイト本、何年も前に出て誰もが興味を失っている本…売りたくない本、売れない本であっても、書店はすぐに入金しなければならない。

 

2005年、ヘイト本ブームが巻き起こったとき、私は大阪府堺市の書店でアルバイトをする大学生だった。いくつかの本屋でヘイト本特集がされているのを見た。「この書店の経営者は、こういう思想の持主なのだな」と思った。

書店でアルバイトしていても、見計らい配本という言葉を聞いたことがなく、そんな誤解をしていた。経営のために、売りたくない本を置いている本屋もあることを、『13坪の本屋の奇跡』を読んで初めて知った。

 

この書評を書く前に、わたしは実際に隆祥館書店を訪れた。

 二村さんは毎週届くというトーハン(取次店)週報を開き、説明してくれた。週報には本の概要が掲載されていた。いくつかの本は赤いペンで囲ってある。隆祥館書店が注文して送ってもらっている本だと言う。

 

どうやって、隆祥館書店は置く本を選べるようになったのか詳細を知りたい。

そう言う私に対し、二村さんは口頭でわかりやすく説明してくれた。

「根拠のなく特定の国を批判するヘイト本を置きたくないと、取次の方の前で声をあげました。その後、隆祥館書店にはヘイト本が届かなくなりましたが、他の同じような規模の書店さんの話を聞くと、未だに見計らい配本でヘイト本が届いているようですね。

声をあげるかあげないか、それも重要なのですが、小規模書店は経営が常に苦しく、見計らい配本で届いた本を書店に置かざるをえないのです」

経営のための、苦渋の選択だ。

 

隆祥館書店も、存続のため、新たな試みをする必要があった。

二村さんは「著者を囲む会」を始めた。彼女がイベント開催にあたって心がけていたことが、『13坪の本屋の奇跡』で、木村元彦によって記されている。

(二村は)単なる客寄せのプロモーションイベントにしないことを心掛けた。(中略)薦められると思ったものはどんなに無名の作家のものでも根気良く紹介したし、逆にリクエストがあれば、(中略)面識が無くても直接手紙を書いて実現させた。

結果、「著者を囲む会」は、著者からも来場者からも好評を得た。現在、その回数は200回を超えている。

 

実際に二村さんにこのイベントが収益につながっているのか私は聞いてみた。二村さんは、来場者が30人集まれば、1人1冊、必ずその著者の本を買ってもらうことにしているそうだ。そうすれば、一晩でその本は30冊売れる。

 

それでも、経営に余裕があるとは言い難い。ふだんは本屋でお客さんにぴったりの本を薦め、レジを打ち、書店経営者としての役目を十分に果たしている二村さん。しかも隆祥館書店の定休日は少ない。

「著者を囲む会」で進行役を務めることの多い二村さんは、寝る間を削り、登壇する著者の本を消化しきるまで再読しているそうだ。

 

忙殺されていても、二村さんには知りたいことがあった。

「他の国の配本システムはどうなっているのか」

なんとか時間を捻出し、ヨーロッパへ向かった。

 

二村さんは、「ドイツの本屋はとても良いんですよ」と私に話してくれた。

ドイツでは、発売前の本のプルーフ(見本)を町の本屋の経営者たちが読み、自分の意志で置きたい本を選ぶそうだ。

ドイツの本屋は、すでに経営者が自ら本を選んでいるのである。

二村さんは、「日本もそうなれば良いのに」と言った。今の日本の本屋は、個性を持ちたくても、持てない。

どの本屋に行っても同じ本が並べられ、「それなら配送料も無料だし、インターネット書店で買おう」と、お客さんたちは本屋から離れていく。

 

ヨーロッパは日本と異なる動きを見せ続け、町の本屋の存続を国が支援している。

ドイツだけではない。

2014年、フランスで反アマゾン法が可決されたのも画期的だった。

 

ハフポストによると、反アマゾン法とは、アマゾンなどのオンライン書店が値引きした商品を、無料配送することを禁じる法律である。

フランスの町には、何百年も前からの国の文化が、今も残っている。建物の高さや色に制限があり、建築物の外観を重視する。文化を守るための努力を惜しまない。

町の本屋を守るために、国が動く姿からも、フランスらしさが表れている。

 

日本はどうしてドイツやフランスのようにならないのだろうか。

 本棚に並べられた中から、一冊を選ぶ。その楽しさを、配本システムやインターネット無料配送のせいで、利用者が味わえない。

自分にぴったりの本を勧めてくれる隆祥館書店のような本屋さんがあることも、ほとんどの人は知らない。

 

 

『13坪の本屋の奇跡』の中で、二村さんが指針にしている言葉が出てきた。

二村さんは、シンクロナイズドスイミングの元日本代表だった。当時のコーチは、メディアでも有名な井村雅代さんだ。

井村さんは、二村さんに「敵は己の妥協にあり」という言葉を教えた。

 

配本システム、増税による出版不況、店舗の規模による返金の時期の違い…小規模書店を追いつめていく様々な背景が本書では描かれているが、二村さんは、井村さんから学んだことに支えられ続けた。

2013年4月には、「井村雅代さんを囲む会」も実現した。『13坪の本屋の奇跡』に実際にイベントで行われた対話が収録されていて、井村さんの熱い想いを知ることができる。

『13坪の本屋の奇跡』で、個人的にいちばん好きな章だ。井村さんの話は、見事に二村さんの「今」に繋がっていると感じた。

 

隆祥館書店で二村さんから話を聞いた後、私は本をおすすめしてほしいとお願いした。

「今の目標や、こうなってほしいと思っていることはありますか?」

二村さんの質問に対し、私は答えた。

 「努力がださいと言う人もいるけど、私は努力する人が報われる世の中になってほしい。私は努力して、自分の夢を叶えたい」

私の言葉を聞いた二村さんは三つの書籍をおすすめしてくれた。

 

その中に、坂本敏夫さんが執筆した『典獄と934人のメロス』があった。

『13坪の本屋の奇跡』で、「初版6000部のこの小説」を二村さんが「ひとりで500部売り切った」と書かれていた。

内容は下記のとおりである。

関東大震災の際、囚人が逃走して罪を犯しているというフェイクニュースが出回った。実際は、全員が戻っていたという事実を、綿密な取材を重ね、「人間の「信」に焦点をあてた」大作である。(「」は『13坪の本屋の奇跡』より引用)

『13坪の本屋の奇跡』で知り、ライターの友人にも勧められていた本だった。探し回っていたが、隆祥館書店で初めて見つけた。二村さんは「外国人に日本語を教えている、若林さん(わたし)にとっても、おすすめの本ですよ」と紹介してくれた。

 

二村さんは緑が好きだと言う。隆祥館書店のブックカバーも、薄い緑だった。

二村さんは丁寧に折り目をつけ、私が買った3冊の本にブックカバーをつけてくれた。

本を愛しく想い、買ってくれるお客さんを大切にしていることがわかるブックカバーのつけ方だった。

 

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目の前にいる人は、間違いなく『13坪の本屋の奇跡』で、奇跡を作った人なのだ。レジの前で、ふつふつと実感がわいてきた。

 

いつか、町の本屋に列をなす、子どもたちの姿を見たい。丁寧にブックカバーをつけてもらい、笑顔で本屋から駆け出す子どもたちの姿。

『13坪の本屋の奇跡』

この本と隆祥館書店を、次はだれに薦めようかと思いながら、私は隆祥館書店のある谷町六丁目を後にした。

 

 

 

【候補作を全部読んでみた】どうなる2019年下半期の芥川賞 後編

 

【執筆/2020年1月5日】

 

第162回芥川賞候補作をすべて読んだ。

今回の候補作の著者に、出版業界に新たな風を吹き込む純文学作家はいるのだろうか。

後編では、乗代雄介「最高の任務」と古川真人「背高泡立草」の書評を書き、候補作5作を比較したうえで、受賞作を予想する。

 

www.wakariowriter.work

 

 

 

(作者名の五十音順、敬称略)

 

乗代雄介『最高の任務』(群像12月号)

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あらすじ

大学の卒業式後、「私」は家族旅行に連れ出される。両親も弟も、「私」に行き先を教えない。道中、彼女は亡くなった叔母とのハイキングを思い出す。

 

著者(乗代雄介)について

1986年生まれ。2015年、『十七八より』で第58回群像新人文学賞、2018年、『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞した。

 

心地よく主人公に憑依できる小説

著者の性別によって、小説の雰囲気は変わるという先入観を持っていた。

今回の芥川候補作もそうだ。木村・千葉・古川の小説は、作者を隠して読んでも男性が書いたものだとわかるし、高尾の小説は「女性の感性が表れている」と感じた。

 

私のそういった感想自体が時代錯誤であることを、乗代は『最高の任務』で示した。彼に、どうして青春期の女性の心情を丹念に描けるのか聞きたい。

 

自分の身に起こった出来事を、他人事のように受け止める主人公は大学を卒業したばかりの女性だ。就職先は決まっておらず、もともとは大学の卒業式にも出るつもりもなかった。

世間との折り合いをつけるのが苦手なタイプであることがわかる。

 電車で遭遇した痴漢に対しても、彼女は「隣人愛の視線を送った」。まるで他人事である。

 

そんな彼女の感覚が一変する出来事が、終盤に起こる。

 

読者は主人公の世界の中で心地よく泳ぐことができる。気づけば読者は、主人公に憑依している。性別も年齢も関係がない。

憑依した結果として、「最高の任務」が何かを知ったとき、読者は主人公と同じように心を揺さぶられるだろう。

 

芥川賞候補作として

間違いなく、芥川賞最有力候補だ。近年、大衆小説と純文学の境目があいまいになっている。もともと純文学は、娯楽性ではなく芸術性を重視している。『最高の任務』は、その「芸術性」と、現代小説に欠かせない「読みやすさ」を兼ねそろえている。

 

古川真人『背高泡立草』(すばる10月号)

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あらすじ

今や誰も使っていない納屋の草刈りに来た、親族。納屋周辺でいろいろな「もの」を見つける。「もの」の歴史、そして物語が紐解かれていく。

著者(古川真人)について

1988年生まれ。2016年、『縫わんばならん』で第48回新潮新人賞を受賞しデビュー。同作は第156回芥川賞候補にもなった。2017年、著作『四時過ぎの船』が三島由紀夫賞芥川賞両方にノミネートされ、2019年上半期、『ラッコの家』が再び芥川賞候補に。純文学系賞レースの常連である。

物語の広がりに気づけるかがポイント

「もの」から物語を紡ぎ出し、オムニバスのような仕上がりにしている。昔ながらの小説のフォーマットのようにも見えるが、意外に斬新な試みだと思う。

 

古川の著作の特徴は方言にある。古川自身も、芥川賞候補作に選ばれることを前提として執筆したはずだ。前作で、選考委員の数名が指摘していた方言の読みづらさは、ほぼ消えている。方言を用いることにより、読者は「舞台になっている納屋が都心ではなく、田舎にある」という実感がわく。

 

難点は、読み返さなければわからない点が多いことだ。

突然場面が切り替わり、時代背景や主人公が都度変化することによって、戸惑いを覚える読者もいるだろう。

最初に概要を読まなければ、それぞれの場面が納屋周辺の「もの」とつながっていることを意識しにくい。

 

逆に言えば難点はそれだけだった。構成力もあり、物語を締めくくるタイミングも心得ている。ベテラン作家に批評され続けた結果が表れているのだろう。

 

芥川賞候補作として

 

過去の古川の著作に対する芥川賞選考委員の講評を、ひととおり振り返ってみた。

 

目を奪われたのは、2017年上半期の、島田雅彦からの講評である。

「血縁関係の中にとどまらず、もっと空間的、時間的に大きな視野に立って、壮大な物語を紡いでもいいのではないか」

『背高泡立草』は、間違いなくこの島田の言葉を意識したうえで練られた物語だ。

 

講評を参考にしつつ小説を組み立てた古川が、芥川賞を受賞する可能性は高い。ただ、選考委員たちが古川の著作を読み慣れてしまったのも事実だ。

他の候補作より審査基準が自然と高くなることは避けられないだろう。

 

芥川賞ドリームは存在するのか

 

純文学小説が売れる時代はとうに終わった。大衆小説を審査する直木賞より辛い状況にあるのが、純文学小説を対象とした芥川賞である。

 

過去十年を振り返っても、実際に芥川賞受賞後、人気を博した作家は数えるほどしかいない。

それでも純文学作家は、わずかな可能性を求めて芥川賞を目指す。時には、自らの作風を犠牲にしても、選考委員の好みに合わせ小説を書く。

 

私の予想では、今回受賞するのは2作。

 

恐らく、乗代雄介「最高の任務」と古川真人「背高泡立草」である。候補作を全作読み、選考委員のこれまでの講評をざっと見返せば、予想できる結果だ。

 

ただ、純文学好きとしては、芥川賞によってチャンスを得て、将来的に出版業界を驚かせるほどの人気作を生み出す逸材が現れてほしい。名目としては、芥川賞は新人作家の著作に限定されているのだ。

 

この観点を採用すると、今までに著作が芥川賞候補作になったことのある作家は省きたい。

木村友祐「幼な子の聖戦」乗代雄介「最高の任務」のダブル受賞。芥川賞ドリームがあるなら、わたしはこの結果を期待している。

 

上記2作は、高尾・千葉の著作より、読み手を意識している。無駄のない構成は読みやすく、芥川賞の要である芸術性も感じられるのだ。

古川も完成度の高い小説を発表したが、ノミネートされるのが4回目となると、新鮮味に欠ける。

木村は2009年デビューで、新人と言えるのかは微妙なところだが、昨年山田詠美も評価したように実力者である。本作で芥川賞を受賞すれば、過去作品も注目され、人気作家への道を駆け上がる可能性は十分ある。

乗代の著作は、前述したように今回の候補作の中で飛びぬけている。芥川賞を受賞する確率は極めて高い。

 

1月15日の受賞作発表と選考委員の講評が、今から楽しみである。

 

 

 

【候補作を全部読んでみた】どうなる2019年下半期の芥川賞 前編

【執筆/2020年1月4日】

 

1月15日、第162回芥川賞受賞作が発表される。

 

私は無類の純文学好きなので、受賞作発表前に、初めて候補作全作を読むという試みをした。

芥川賞は賞レースだが、日本の出版業界の命運をにぎる純文学作家が見つかるかも知れない。期待しつつ読了し、書評をしたためた。

まず、現在(2020年1月時点)の芥川賞の概要は下記のとおりである。

 

 

 

 

 

  (作者名の五十音順、敬称略)

 

木村友祐『幼な子の聖戦』(すばる11月号収録)

 

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あらすじ

青森県の村。40代の冴えない主人公「おれ」は、村議をしている。時折会っていた人妻との関係に足をすくわれ、村の選挙戦に裏から関わることになる。

著者(木村友祐)について

1970年生まれ。2009年、『海猫ツリーハウス』で第33回すばる文学賞を受賞し、デビュー。その後、三島由紀夫賞、野間新人文学賞などで著書が候補作となるも、受賞には至らなかった。

2019年、第161回芥川賞候補となった古市憲寿『百の夜は跳ねて』で、参考文献として木村の著作『天空の絵描きたち』の名前があげられた。この件は物議をかもしたが、木村の小説が選考委員たちに読まれるきっかけになったとも言える。山田詠美は「(他の芥川賞)候補作よりはるかにおもしろい」と高く評価した。

木村友祐自身の著作が芥川賞候補に選ばれるのは、今回が初めてである。

 

大衆小説としても純文学としても読める

 

直木賞のほうがふさわしいのではないか、と第一印象では思い、序盤は「どこかで読んだことがある作風だ」と感じた。筆者の個性が発揮されるのは中盤以降だ。主人公の内面世界が、これでもかとえぐられる。

選挙に対する年配の人たちの意識や小さな村の閉塞感を表しているため、小説の時代設定は少し昔なのかと思っていた。これは誤解だった。「ツイッター」や「マウンティング」などの現代語が急に登場し、「勃起力」という新語まで出てくる。 

 

「幼な子のような無垢な心」「ペテンの意味ばっかの世界に、おらがとどめば刺してけらぁ」「伝説を作るのは、おれだ」

 

主人公は、アウトロー小説のような勇敢な言葉を心の中で放つ。並行して、筆者は客観的に、主人公の「しょうもなさ」を描く。

主人公の主観と周囲の状況とのズレ。その対比は非常にわかりやすく、筆者の意図したとおりに読者に伝わるだろう。

 

小説の中で、突然登場するのが、福島から来たと思わしき少女だ。少女の視線は、いつしか読者の視線になる。冷静に内容をたどっていたはずが、いつしか主人公の行動に驚きを隠せなくなるのだ。

ラストはよけいな部分をすべて排除し、無駄がない。

 

筆者は、主人公の内面を軸としつつも、日本の社会問題を意識している。選挙の公平性はもとより、外国人妻が税金を払っているのに選挙権がない点などにもあえて言及している。メッセージ性の強い小説でもあるのだ。

 

芥川賞候補作として

他の芥川賞候補作が、品良く、あくまで純文学の領域にとどまっている中、異彩を放っていた。『幼な子の聖戦』が暴力的とすら言える力強さで、読者を主人公の内面に引きずり込んだ点は、選考委員たちから高い評価を受けるのではないかと予想している。

 

高尾長良『音に聞く』(文藝春秋

 

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あらすじ

天才的な音楽の才能を持つ妹と、妹との才能の差を自覚している姉。姉妹がウィーンを訪れ、音楽理論を専門とする父と久しぶりに会ったことにより、不思議な愛憎劇が幕を開ける。

著者(高尾長良)について

1992年生まれ。2012年、『肉骨茶』で、史上最年少の新潮新人賞受賞者となる。2017年、京都大学医学部を卒業し、医師としての顔も持つようになった。

これまでに二度、著作が芥川賞候補作に選ばれている。ただ、選考委員からの評価は高いとは言えず、特に宮本輝は、2012年に「小説の序章を読んでいる感じ」、2014年に「人名にルビをつけないといけないものは小説と呼べない」と高尾の著作を酷評した。

2017年度の京都市芸術文化特別奨励者でもある。

 

18世紀小説を昔の作家が翻訳している印象

 

具体的に言うと、ヨーロッパの数百年前の小説を、戦前の作家が日本語に翻訳しているようだった。

 

登場人物たちも、ヨーロッパの貴族の言葉を日本語訳したような話し方をする。そもそも、この小説の中での会話はすべてドイツ語なのだろうか、それとも日本語のときもあるのだろうか。最後まではっきりしない。

 

現代人がふだん目にしない漢字を多用し、意味がすぐに理解できない言葉を頻出する。舞台がウィーンだからか、あえてドイツ語を書き、()内で日本語の意味を説明するのも現代小説では珍しいだろう。他の作家が持ちえない耽美的な作風の持ち主であることは確かだが、読み手を苦しませる小説だ。

 

高尾の著作は、もともと純文学を読みなれている読者からも「難しい。高尚すぎる」という感想が多い。それでも作風を変えないのは、芯があるからだとも言えるが、発表する時代を間違えているように思えてならなかった。

 

芥川賞候補作として

本人の問題ではないが、「若き才媛」「二十代女性作家」など、目にする紹介文が全て古めかしい。2003年、綿矢りさ金原ひとみ芥川賞を受賞したときのことを思い出した。

同じような話題性を狙っているのなら、受賞もありうるけれども、読者の純文学離れを加速化させる危険性をはらんでいる小説だ。選考委員(特に宮本輝山田詠美あたり)は厳しく評価するのではないだろうか。

 

千葉雅也『デッドライン』(新潮社)

 

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あらすじ

修士論文の締め切り(デッドライン)が迫る主人公。大学院で学びながらも、父親の事業の失敗や、自らのセクシャルと向き合い、日々を送る。

著者(千葉雅也)について

1978年生まれ。立命館大学大学院の先端総合学術研究科准教授。専門は哲学と表彰文化論。既刊の書籍は多々あるが、小説は本作がデビュー作となる。

 

序盤とラストは必要だったのだろうか

 

淡々とした文体は持ち味なのだろう。ただ、ひとつひとつの場面が短いので、早送りしてドラマを見ているような感覚になった。

 

主人公の状況を読者が把握する前に、物語が進んでいく。主人公の過剰な自意識に圧倒され、彼をどんな人物として認識すればいいのかわからなくなる箇所もあった。

 

唐突に入る大学院での講義内容は、筆者本人の実体験から得たものだろう。名言がたくさん出てくる。物語に立体感を出したいという狙いも感じられ、この作品が哲学書やビジネス書なら興味深い。

しかし、小説としてはどうか。講義内容に、いくつか伏線のようなものが出てきた。それを回収しきれないまま、終わってしまった感がある。筆者が何を伝えたかったのかも、同時にぼやける。

 

序盤もそうだが、ラストは明らかに蛇足である。無駄を省いた木村友祐『幼な子の聖戦』との違いが表れた。

 

出版社の概要では主人公のことを「ゲイ」と表現しているが、彼はバイセクシャルなのではないだろうか。個人のセクシャリティを特別なものとして扱うのも、十年前なら斬新だと感じただろう。2020年前後に発表する小説としては時代遅れだ。

 

芥川賞候補作として

研究者である筆者が小説を書く。何度も芥川賞候補に選ばれては受賞を逃している古市憲寿と似た傾向である。

研究者として出した著作は優れているのかも知れない。しかし、小説は今回が処女作ということもあり、他の候補作と比べると未熟な点が目立った。

 

 

 

 後編では、乗代雄介「最高の任務」、古川真人「背高泡立草」 の書評の後、全作品を比較、受賞作を予想する。

 

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